Interview : 2022年12月31日 / 2023年1月1日/ 2023年1月3日
仏蘭久淳子(フランス移住者)インタビュー
実施日:2023年1月3日
公開日:2024年4月1日
場 所:仏蘭久淳子氏宅
語り手:仏蘭久淳子(ふらんくじゅんこ)
聞き手:小関彩子
【O】 始まりました。それでは録音する許諾が得られましたので、録音を始めます。本日は、2023年1月3日です。
【F】 あ、そう。
【O】 はい。では、改めまして、お名前をお願いします。
【F】 私の名前?
【O】 はい。
【F】 私は、昔のは、土橋淳子と言いました。今では、淳子?仏蘭久ですね。だけど、フランスの習慣として、昔の、昔のというか、あれがいつもくっつくんですよね。
【O】 そうですか。
【F】 「淳子?仏蘭久?土橋」かな。それとも「淳子?土橋?仏蘭久」、「淳子?仏蘭久?土橋」かな。よくもうくっつくんですよ、公式の名前として。
【O】 そうですか。では、そういうふうに「淳子?仏蘭久?土橋」というふうな名前を使ったこともあるんですか?
【F】 普通は使いませんけどね。
【O】 何かのシーンでそういうのを使う。
【F】 書類はそうですよ。
【O】 そうでしたか。それから生まれた年もお願いします。
【F】 )Mille neuf cent trenteですね。
【O】 はい。
【F】 19…。
【O】 1930年ですね。
【F】 1930年ですね。
【O】 わかりました。
【F】 Mille neuf cent trente.
【O】 はい。では、よろしくお願いいたします。本日お伺いしたいのは、長年フランスで生活してこられて、ご自分のことを日本人だと感じる場面と、フランス人として生きている場面といろいろ場面によって、場合によって違うと思うんですが、どういう区別というか、使い分けというか、そういうのがありますか?
【F】 意識しないで、そういうことはあんまり意識しないですよね。自分がフランス人であるとか、自分が日本人であるとか、という意識はしないですね。自分がフランス人であるということは、あんまり考えないですね。やっぱり日本人だと思ってますね。
【O】 思ってますか。ちなみに少々立ち入ったことを伺いますが、国籍としてはどういう状態に今なってらっしゃいますか?
【F】 国籍?
【O】 はい。
【F】 二つあるんですよ。
【O】 二つ持ってらっしゃるんですね。
【F】 日本の国籍とフランスの国籍と持ってます。
【O】 じゃあパスポートは?
【F】 パスポートはどっちになってるのかな。どっちか気をつけたことないわね。
【O】 そうですか。
【F】 二つあるんですよ、国籍。
【O】 でも、あなたは何人ですか?と聞かれたら、やっぱり自分は。
【F】 日本人って言うでしょうね。フランス人ですと、じゃあフランスは、まあそれは日本人ですよね。だけど、フランスの国籍を持った日本人ですね。でも、日本の国籍も持ってるわけです。
【O】 そうしますと、日系フランス人っていう表現は、あまりぴったり来ないですかね。
【F】 来ないですね。
【O】 フランス国籍を持った日本人、ということになりますよね。
【F】 うんうん。
【O】 そうしますと、とはいえ、ここはパリですから、随分たくさん日本人が住んでると思うんですが、普段日本人コミュニティとの付き合いは、どれぐらいありますか?
【F】 そうね。それほどは濃密に日本人であるということを意識して、日本人社会と付き合うってことはないですね。というのは、やっぱり結婚して、主人がフランス人でしょ。だから、生活の、基本的にはやっぱりフランス人としての生活ですよね。
だけど、同時に日本人であるという、日本人の感覚的なものね。肉体的なもの、感覚的なもの。それはどこの国籍を持とうと、そう簡単に変わるもんじゃないですよ。
変えようとも思わないしね。
だから、あなたは日本人ですか?って言われたら、ええ、日本人ですって言うわよね。だけど、パスポートを見ると、フランスのパスポートを持ってるわけですよね。
【O】 先日、日本から留学してきた絵描きさんたちとのグループは、お付き合いがあったというふうに聞きましたが、やはり、その。
【F】 だから、日本人画家の中に入ってるわけですよ。フランス人画家じゃないですよ。
【O】 日本人画家というグループの中では、結構濃密なお付き合いがあったりするんですか?
【F】 そうですよ、グループでね。日本人画家展なんていう展覧会もあったです。でもね、私の場合、やっぱりそれはそうは言ってもね、主人はフランス人だしね。だから、本当の日本人のグループ、日本人たちの集まりっていうか、日本人のグループに比べると、日本というものとのつながりは、そんなに毎日、日本日本って思ってませんよね。
【O】 そうですね。絵画の、ちょっと話はずれますが、画家のキャリアとしてはサロン?ドートンヌにも出品しておられますから、そういう意味では日本人画家展だけではなくて、もっと広く画家として、一人の淳子?仏蘭久として参加していらっしゃいますよね。では、画家さんではない日本人とは、どれぐらいお付き合いがありますか?
【F】 画家じゃない日本人とお付き合いね。別に、どうだろう。日本人とのお付き合いはあるわけですよ、結構ね。だけど、私の場合、主人がフランス人ですからね。フランス人とのお付き合いというものももちろん、フランス人の親類とか、いとことか、そういう、だから、どっちに偏ってるかということに、日本人的であるか、フランス人的であるか、あたし、あんまり意識してないですね。
そうなのよ。結局、フランスという、パリというその場所もあるかもしれませんけどね。非常に国際的というか、いろんな国の人がいるわけですよ。そして、みんなそれぞれに、どの程度自分の国を主張するか、自分が中国人であるとか、自分がベトナム人であるか、人によって違いますけどね。あたくしの場合、それほど自分が日本人であるとか、フランス人であるとか、そういうことはあんまり意識しませんね。
【O】 実際はベルナール先生が日本学をなさってるということもあって、フランスにおける日本人をある種代表するようなお立場に立たれることも、結構あったと思います。例えば、日本大使館のレセプションに出かけるというようなことも、たくさんあったというふうに伺っていますね。
【F】 そうですね。だけど、そのときはフランス人としてじゃなくて、日本人として招待されるわけですね。
【O】 そういう意味では、フランスに住んでいる日本人として、日本大使館を中心とした大きな日本人コミュニティの中に含まれていらっしゃいますよね。
【F】 だから、やっぱり日本人ですよね。
【O】 そうですね。
【F】 パリというところは、いろんな国の人がいっぱいいるわけで、何人であるとかって、そういうのは、それほど主張することもないですよね。だから、やっぱり日本人として生きてると思いますよ。パリに住んでいる日本人としてね。普通の日本人じゃないかもしれないです、もちろん。
【O】 確かにフランスというだけではなく、その中でもパリというのが大変特殊な場所ではありますね。
【F】 そうなんです。
【O】 大使館を中心とした日本人の大きなコミュニティがあるわけですが、そこを代表するというわけでもありませんが、ベルナール先生が確か、フランスに来られた天皇のレセプションに出られたことがあるって聞きました。
【F】 何の?
【O】 天皇陛下の。
【F】 うん、あるでしょう。
【O】 そういうときは日本とフランスの架け橋となるような、お仕事をなさってるという立場で、そういう場所に出られることになりますね。
【F】 まあね。架け橋っていうのはちょっと大げさだけどね。どうでしょうか。ベルナール?フランクというのは日本が大好きで、くびったけっていう、みたいで、とにかく日本と、本当に〇〇○○(聞き取り不明???編集者注)っていうか、そういうんでしたね。
でも、学者というのは一応客観的ですからね。例えば、日本人みたいな格好をするとか、いかにも日本人らしくするとか、そういうことはなかったですね。しゃんとしたフランス人であったわけです。
【O】 ベルナール先生はフランス人として、日本を研究していらっしゃるお立場ですからね。では、もう一つ、日本の中でも特に和歌山との関わりについても伺わせてください。淳子さんは、ご自分が和歌山出身であるという意味もあって、和歌山に帰ったり、和歌山のご親族が来たりというふうに、和歌山とのつながりというのは、ずっと持ち続けてこられていると思いますが、和歌山との関わりっていうのは、どういうものでしたか?
【F】 具体的に和歌山との関係という、具体的に、じゃあ和歌山の何かの会に入ってるとか、和歌山のどなたかと特別に関係があるとか、とにかく具体的に和歌山とのつながりがこういうものです、こういうものですというものは、何もないわけです。
ただ、感覚的には自分は和歌山の者であるという感覚だわね。そういう感覚的なもの、私がフランス人ですなんて思ったことないわよね。
【O】 自分は和歌山人だなって思うことってあります?どんなときなんでしょう。
【F】 自分は和歌山人であると、いや、それほど和歌山という特定の具体的なものってないんですけどね。じゃあ日本人であるっていうのはどういうことかって、じゃあ和歌山人であるっていうことは、どういうことかって。具体的にはどうって言えませんよね。
ただ、自分は和歌山の者、和歌山の人間だという、そういう感覚的なものなんでしょうね。具体的にじゃあどういうところ、そこまでいきませんけどね。
【O】 ベルナール先生は密教学の研究の必要から、和歌山県に足を運ばれる機会が多かったと思いますが。
【F】 まあね。
【O】 一緒にいらっしゃいました?
【F】 和歌山に?彼と?
【O】 はい。
【F】 もちろん行きましたよね。もちろん、私の郷里は貴志でしょ。フランクは貴志にも行きましたよ。最初、お手洗いなんかはちょっと困りましたけど。
【O】 ご研究のためにも和歌山県のあちこちを回られたんではありませんか?
【F】 あたくしよりも彼のほうがよく行っていますね。
【O】 じゃあご一緒じゃないときもあったんですか。
【F】 実はあたくし、母の晩年に、亡くなったんですけども。親不幸なものだと自分で思ってましたから、母のそばについてたんですよ、何ヶ月かね。その間、主人はやっぱり和歌山に行ってましたし、彼は母のそばについてるわけじゃないから、ほとんど毎日のようにあっちに行ったりこっちに行ったりしてましたよ、和歌山の中をね。
【O】 そうですか。高野山とか熊野古道とか、密教に関わりがあるような場所をたくさんフィールドワークしておられたと思いました。
【F】 歩いてます。だけどですね、だけどですけどね、主人、フランクという人はもう本当に日本が好きで、日本的なものをつかんでというか、ものを持ってましたし、物ごしなんかも日本人のような物ごしだったしね。
【O】 物ごし?
【F】 そうそう。挨拶なんかするのも、あたくしよりも日本人的で。日本人的だったかもしれませんよね。とはいえですよ、日本人であるという感覚的なものは抜けませんからね。フランス人であるという感覚的な、そういうものはフランクにはやっぱり根本的なものはフランス人ですよ。
だけど、日本に対する、日本が好きだということと、日本を尊敬して好きだということは、おそらく私以上に、普通の日本人以上だったかもしれませんよね。そんなもんですよ。
【O】 淳子さんがたまたま和歌山のご出身だったという縁があって、ベルナール先生も和歌山をフィールドワークされる機会がやっぱり多かったでしょうね。
【F】 そうですね、やっぱりね。他の地方と比べて、和歌山、そうですね。他の地方に比べてね。そりゃでも、そうは言えないかもね。東京なんかにやっぱり住んでましたからね。東京とか、あの辺ね。横浜から伊豆にかけて、あの辺なんかも。関東地方全部、随分詳しかったんじゃないかな。
【O】 淳子さんがフランスに行かれて、そのあと改めて和歌山を見直すというようなことはありましたか?
【F】 いえ、別になかったです、そういうことは。和歌山っていうのは、一種特別にベタっと体にくっついたもんですよね。だから、いつまで経って、パリにどれだけ長く住もうと、やっぱり和歌山の人間なんですよ、和歌山人なんですよね。それはもう切り離せないですよね、感覚的なものはね。
だから、じゃあ和歌山が好きかっていうと、もちろん好きですよ。だけど、他の東京よりも和歌山のほうが好きかって言われれば、まあそうでもないですよね。東京には東京の面白さがあるしね。和歌山よりは、東京のほうが面白いかもしれない。友達も東京のほうが多いかもしれないしね。
それはもう父や母との関係と同じようなもんですよ。和歌山というところと私というのは、父や母と私というのは。もう一体になってるんですよね。
【O】 逆にことさら、意識するようなものでもないっていう答えになりますか。
【F】 そうそう。ことさら、和歌山和歌山って言わなくても、和歌山は自分の国っていうか、まあそんなものですよね。
【O】 フランスに来られた当時は、なんと言っても船で来られたということで、しばらくは行き来することも大変難しかったと思いますし、通信状況もあまりよくなかったと思いますから、日本や和歌山と頻々とコンタクトするっていうようなことは、難しかったでしょうね。
【F】 そうね。電話代も高かったしね。初めて電話で姉と話したときは、淳ちゃん、聞こえる?うん、聞こえる聞こえる。それから元気?うん、元気よ、聞こえる?って、そんな程度の話でしたね。でも、声が聞こえるっていうことが、奇跡的に感じましたね。
【O】 そうですか。それはご結婚されてだいぶ経ってからですか?
【F】 どれくらい経ってましたね。え、そんなに経ってなかった。いや、それでも1年、もっと経ってたかな、2年ぐらい。2、3年経ってたかもしれない。まず、日本で結婚しました。で、日本で暮らしてましたからね。
【O】 じゃあもう大変久しぶりに、そのお声を聞いたんですね、お姉様の、電話で。
【F】 そうそう、電話でね。
【O】 それ以前は手紙のやり取りだったんですか?
【F】 そうですよね。今から考えるとちょっと信じられないわね。遠くでね、顔も見えないしね、あの頃は。
【O】 初めて日本に帰ったときのことは覚えてらっしゃいますか?
【F】 あんまり覚えてないけれども、やっぱり日本に帰るということにすごく感激しましたかね。でもね、時々そういう種類のそういう感じのご質問を受けることがあるんですけどね、本人にとっては日本ということと、フランスということと、そんなに離れた貴重なものじゃないわけですよ。一体になってるんですよ。その思いというか、そういうのはね。
だから、頭の中には日本がいつもあるし、と同時にじゃあフランスはって、フランスはしょっちゅう頭の中にあるわけなんですよ。だから、日本とフランスというものが、そう切り離された二つのものじゃなくて、一体になってるんですね、あたくしなんかの場合は。
【O】 だから、ことさらに日本について質問されると、ちょっと何かが違うような。
【F】 そうそう。考えなくちゃいけないわけですよ、どうだったかなというふうにね。といって、日本から離れてるわけじゃ、決してないんですよ。結局、日本というものは、しょっちゅう体質的に、体の中に日本というものはもう切り離せなく存在してるわけです。
と、同時にじゃあフランスはということになると、今度は結構フランス人のように生活してるわけで、それは言ってみれば、普通のフランス人と感覚的に違うかもしれませんよ。本人じゃないからわからないけどね。
でも、フランスで生活してるっていうことと日本人であるということは、全然両立しなくはないんですよ、一体になってるわけですね、あたしたちの場合はすでに。
【O】 そういうふうにあまり違和感なく両立できるというのは、淳子さんの環境にもよったんでしょうか。
【F】 そうかもしれませんね。だって、主人がフランス人であるということは、まず。だって、パリでも日本人のご夫婦というのは、もう少しフランスの社会からちょっとずれてると言っちゃ悪いけど、ちょっと違うかもしれませんよね。
私の場合は主人がフランス人でしょ。主人のお母さんもフランス人でしょ。だから、しょっちゅう一緒にいるっていうか、ご一緒でしょ。だから、一緒になっちゃってんですよ。
【O】 そうなんですね。しかも、そのベルナール先生は日本通でいらっしゃるので、両方が相まってということになりますね。
【F】 そうそう。
【O】 日本人会のようなものはあるんですか?
【F】 日本人会?ありますよ。
【O】 どんな活動をしてるんですか?一応参加してらっしゃいます?
【F】 ええ、そんなには、非常に。そりゃね、その中には。パリにいる日本人だっていろいろあるわけで、非常に日本人を意識して、日本人会のお世話なんかして、日本のことをやってる人もいますよ。といって、あたしたちなんかそんな、そういう積極的な活動をするわけじゃないけれども。
例えば、日本人展、日本人の絵描きの展覧会があると、私、出品しますよ。だって、あたしは日本人の画家なんだからね。フランス人の画家じゃなくて、日本人画家だから。だから、そういう意味では日本人としての展覧会なんかは出しますけど、だからといって、日本人であるということを、もちろん、そういうことを非常に積極的に活動してる人もいますけど。
あたくしはそういう意味であんまり、ことさらに日本人である、日本人である、ということはあんまり意識もしない、ぼんやりしてるんでしょうね、自分がね。どうでもいいっていうことでもないんですけどね。何をしても、ある意味では、何をしてもあたくしは日本人だと、そういうことですよ。
【O】 確かにそうですね。
【F】 フランス人はいくら騒いだって、フランス人ですよ。逆立ちしたって。
【O】 その日本人画家の会のことを今伺いましたが、淳子さんの絵画作品の中には、やはり、日本的なものがあるなとご自分で感じられますか?あるいは他者からそのように批評されたご経験がありますか?
【F】 具体的にはこういうこと言われたっていうことは、別にあたくし思い出せませんけども、私って割合、自然体なんですよ。わざわざ日本人らしい絵を描こうとは思わないですね。だけど、ごく自然に自分の本性、何て言うんでしょうね。
すでに私なんかは純粋な日本人じゃないですよ、私だけじゃなく、今の若い人たちでも。日本人日本人って言ってますけど、その日本人という中には、多分にフランス的なものも入ってるし、アメリカ人的なものも入ってるわけです。
だから、ここからここまでは日本人的だ、日本人だ。ここからここからはフランス的だって、そういうのは不可能っていうか不自然というか、そもそも必要ないですよね、そんなこと。自然に醸し出されてくるものですね。
だから、そういうこと言っていて、じゃあどうでもいいのかって言うと、そうでもないんだけどね。あたくしの絵が、人にもよりけりですよ。フランスに来て、日本ということを本当に、ことさらに意識をする人たちもいますよね。日本再発見ですよ、自分の中の。
あたくしはそうじゃないんですよ。あたくしは自分が自然体である自分の中にすでに非常に、もちろん日本人だから、どうしようもない日本的なものを持ってる。それがごく自然であるわけで。
だけど、これだけフランスというものに馴染んでるんだから、私の感性、作るものの中にフランス的なものが入ってないっていうことは、不可能ですよ。だから、自然に放っておけば、淳子?仏蘭久のものが出てくるはずだと思うのよね。
案外ね、わざわざするのは嫌らしいですよ。あたくしの好みですけどね。自然体でやってれば、日本人なんだからね。そりゃいくら逆立ちしたって、フランス人の真似をしたってしょうがないし、必要もなし。
要するに自分自身に忠実っていうのは、エゴイズムじゃないですよ。感覚的に何を表現するか、どういうふうに表現するかっていうようなことは、好みですね。の中に、日本人としてのものが絶対どうしようもなく出てくるはずですよね、正直に言えばね。
だから、一昔前、二昔前、昔の日本人、油絵なんか始めてフランスのというかヨーロッパの絵の影響を受け始めた頃は、一生懸命に真似をしようとしてたわけですよね。そんな時期はもうないですよね。
あたくしたち自身の中にも、どうしようもなくフランスだの、ヨーロッパだのがもう組み込まれてしまってるわけです、今の日本人にはね。だから、そういうものに忠実であればいいと思うんですよ。
【O】 確かに。もうすでに、例えば、文化や教育を通じて。
【F】 そうそう。わざと、まあね、だからといって放っておけばいいっていうわけでもないんだけどね。だから、その人その人の性格にもよるでしょうけれどもね。あたくしは自然に出てきたものが、それが本当だと思うんですよ。純粋に日本的であっても、なくてもね。フランス的であろうとなかろうと。
そもそもフランスの文化っていうもの自体が、非常に複雑に混ざってるもので、これがフランスですっていうようなもんでもないからね。
【O】 フランスを代表する画家のように思われている人が、フランス人でないっていうことはいくらでもありますものね。
【F】 そうですよ。
【O】 それもまたフランスとかパリというものの、ちょっと特殊な。
【F】 そして、それが現代というものですよね。
【O】 そうですね。
【F】 ある意味で非常に世界的になってるっていうかね、結構なことですよ。そりゃ無理に日本的なものを探すのもいいけどもね。でも、根本的に言えば、やっぱりあたしたちが学校でやったのは、フランス的な技術だわね。日本画部じゃないもん。その日本画部の人たちは、またもっと別の感覚を持ってるかもしれないけどね。
【O】 ちなみに言語の面についてもお伺いしますが。
【F】 言葉?
【O】 はい。早くからフランス語には、それほど困らなかったというふうに伺っていますが、これ長年フランスで両方の言語を使って暮らしてこられましたが、どっちの言葉を使うかによって何か違いが出たりしますか?
【F】 さあね。違わないんじゃない?
【O】 あるいは頭の中で考えてるときは、どちらで考えてらっしゃるんでしょうね。
【F】 日本語で考えるか、フランス語で考えるか?ごちゃ混ぜじゃないかな。
【O】 そうですか。
【F】 意識しないね、別にね。どうなってるのかな。今、こうして話してるときは日本語ですよ、考え方も。
【O】 そうですね。
【F】 だけど、それから考える材料にもよるわね。そりゃそうですよ。日本的な要素を持ったテーマについて考えてるときは、やっぱり日本語の語彙を使って考えてるわけですよね。
【O】 じゃあ逆もあるということですね。
【F】 そうそう。
【O】 どちらで考えてるかによって、ものの考え方が変わったりはしない、というふうにお感じですか?
【F】 やっぱり違いがあるかもね。日本語で考えるときと、フランス語で考えるときと違うことってあると思いますね。
【O】 そうですか。どんな違いがあるんですか?
【F】 ほんとね。
【O】 説明するのはとても難しいと思いますが、聞かせていただければ。
【F】 それ言いようもないけどね。Ce n'est pas simple. 待ってね。そうね。ごっちゃごちゃじゃないかな。はっきりと。それはあれですよ、はっきりとフランス語で考えてるというときと、はっきりと日本語で考えてるというときとありますよ、はっきりと区別されてやってる。
だけど、いつの間にやら、もうろうとどっちで、あれ?今何なんだ、どっちで考えてたんだろうと。そんなにあなた、人間の思考というのは、はっきりと形を取ってませんからね。もやもやっと頭の中でしてますからね。
だから、それがフランス語であったり、日本語であったり、そうはっきりと。人にもよるかもしれないです。あたくしなんかはルーズだから、どっちだっていいわぐらいに思ってますけどね。やっぱり学生さんなんかははっきり区別して、考えてるのかな。
【O】 あるいは、フランス語で話してらっしゃるけれども、大変に日本的な発想だというふうに言われたりすることはありますか?逆もあるかもしれません。
【F】 私の場合?
【O】 はい。
【F】 でもね、日本的と言ってもね、あたしたちのような教育を受けて大きくなって、そして、あたしたちのように社会に入ってきた人間にとってはね、そんなに日本的であるとか、フランス的であるとかというふうな区別はあんまりないわよね。もうろうと一体になってますよ。
ここまでが日本的だ、ここからはフランス的だというようなことは、あんまり一つのテーマについてだけでもね、その中にフランス的であったり、感覚はもうこんなになってます。
【O】 そうですね。
【F】 そりゃちゃんとした人たちがちゃんと区別して考えてるかもしれないけどね。私たちみたいな凡人をどうって、もやっと生きてるほうがなんか、性格にもよるわよね。
【O】 さて、では、すでにフランスに移住されてからのほうが、日本時代の倍以上になりました。
【F】 そうね。それでもね、大したもんだと思うんだけどね。人間の感覚というか、人間の経験。経験はそんなんじゃないんだけど、何て言うんでしょう。小さいときの、7歳か8歳ぐらいまで、7、8年のうちに吸収したものね。
それとそれ以後の何十年かの、50年、70年ぐらいの吸収したものとは、全然分量が違うわけでしょ。それでも、小さい頃の4、5年の間に吸収したものっていうのは大きいですね。そのあといかに逆立ちしても、吸収したものは大したもんじゃないですよね。
【O】 そうですね。ほぼ白紙のところから子どもが吸収したもの、というのは大きいですね。
【F】 そうですね。それが底になってるのね、多分ね。その上にこういろんなものが入ってくるわけですけどね。それから日本人の場合、あたくしなんかの場合かもしれないけど。日本の場合、普通の日本の中に日本というものと、フランスというものと区別なく、入ってるわけですよね。
これは日本的なもの、これは日本のものだよ。これは、という、それほどはっきりしてないのよね、今ね。自分が非常に日本的だと思ってたものが、結局、フランス的なものであったりね。それは十分あり得ますよ。
【O】 何か例がありますか?
【F】 例?さあね。例と言われて、改めてあれだけど、いっぱいあるんじゃないの。
【O】 そうですね。では、3日にわたっていろいろと長いお話を聞かせていただきましたが、とはいえ、92年間の全てのご経験となると、まだまだ汲み尽くせていないものがたくさんあるのではないかと思いますが。
【F】 ってどういう意味?
【O】 何か今思いついたことがあったら、何でも今のうちにお話しください。
【F】 日本的なものとフランス的なものという区別は、とても難しいと思うんだよね。どこに線を引くかね。もう一体になってますよ。だから、改めて日本的、フランス的というふうなテーマを自分に課す場合に、困っちゃうんですよね。一体どこが日本的であり、どこがフランス的であるのかね。でも、それは私の場合じゃなくて、大概の日本人がそうじゃないですか?
【O】 そうだと思います。
【F】 フランスに住まなくても、日本に住んでいてもそういうことよね。
【O】 すでにさまざまな影響をあちこちから受けて、成長し、日々暮らしてるわけですから。
【F】 これは日本的なものだとかね。そういう区別もあるんでしょうけどね。もう一体になってしまった部分も、すごくたくさんあると思いますね。
【O】 そうですね。長いインタビューになりましたが、仏蘭久淳子さん、土橋淳子さんという一人の女性の92年にわたる長い歴史について、いろいろお伺いしてきましたが。
【F】 なんてことないでしょ。東京に住んでたって、別にどうでしょうかね。
【O】 どうでしょうか。
【F】 東京に住んでてと、パリに住んでいてと、まあそんなに違わないわね。そんなに違わないと思いますよ。
【O】 何か今思い出す、大変印象的なこととかありますか?
【F】 別に、あたくしってぼんやりしてるのかね。別にこんなことは、なんてないわよね。本当がっかりするでしょ?
【O】 いえいえ。
【F】 でも、そんなもんですよ。特に今はもう行ったり来たりでしょ、私の場合だけじゃなくて、大概の。ずっとどっか日本の、ちょっと東京から離れたようなところに住んで、外国との接触のない生活をしてる人たちは、もちろん純粋に日本人的であるとはいえですよ。
ラジオとかテレビだとか本とか、いろんなもので、全然いつの間にやらフランス人と同じような考え方をしていたり、日本のものだと思っていたら、外国のものであったりね、そんなもんですよ、今。しょうがないです。
まあそうは言いながら、やっぱり日本というものはあるんでしょうね。そんな日本は、東京はパリじゃないんだしね。そういうのは専門家に聞かないと、わかんないよね。
【O】 実際にこうやって、生きてこられた長い歴史について伺うことができて大変貴重な機会でした。
【F】 とんでもない。なんてことないじゃないの。日常の生活っていうのは、混ざって混ざって、いろんなものがね。食べ物にしろ、話すことにしろ、新聞にしろ、いろいろと(00:50:00)全部もう混ざってますからね。
これが日本であるとか、これが日本的であるとか、そういうのを取り出すのは難しいですよね。日本的だと思ってたものがフランスから来たものであったりね。
【O】 3日間にわたって、長いお話を。
【F】 つまらない話、つまらない、本当に。あとやっぱり私って専門家じゃないから、ダラダラしてますよね。
【O】 いえいえ。
【F】 考え方にしろ、何にしろ、だらだらしてるわけですよ。そういうことに対する専門的な欲求っていうんですかね、解釈をしようと思ってる人たちはméthodeがありますよね。
こういうふうに分析して、あたしたちの普通の人間は、だらんだらんと、みんな混ざってますからね。どこからどこまでが日本的であるのか、フランス的であるのか、わかんないですよ。
【O】 というリアルな現実のお話を伺うことができて、大変貴重な機会でした。
【F】 いえいえ、とんでもない。
【O】 どうもありがとうございました。これで終わらせていただきます。ありがとうございました。
【F】 終わらせていただきましょう。失礼いたしました。
【O】 失礼します。
(00:51:53)
【O】 そうですね。ルイさんはそのままフランス人として、しかもフランス美術を専門とするっていうふうに本当にフランスの教養を高めて、フランス人として生きるということを選ばれたように見えますね。
【F】 そうですね。ルネの方は違うわね、ちょっとね。
【O】 先程ルイさんがそういうふうに生きようと思った理由っていうのをちょっと仰ろうとしてて。
【F】 まあ、私の推察ですよ。彼が一種のなんていうの、pitoyableって言うんですかね、ちょっと気恥ずかしさをもって、そういうことについては自分で話をしたことないけども、自分が半分日本人であるから日本に興味を持つという人と、自分は半分日本人、100%フランス人じゃないからフランス人としてしっかりやろうという2つあるんじゃないかな、心理的に。
私は半分日本人だから日本語やりなさいというのを言うつもりは全然なかった、二人の子供に対して。そうするとルイの方は非常にフランス的な方を選んで、ルネの方は半分足を日本に突っ込んだ生涯というかそういうのになったわね。私はそれをね、私がそのimposerしようとは思わなかったの。
【O】 ルネさんの方も大学に入ってわざわざ日本語を学ばれたわけで。
【F】 ルネですか?
【O】 はい。逆にそれまでのあいだ全然日本語をマスターしてらっしゃらなかったんですね?
【F】 そうね。半分かじり。でもね、私がそう思ったのはね、親が日本人だからという理由で、私には考え方正しいとは思いませんよ?小さい時から半分、日本というものを半分背負って育つのと100%フランス人として育つのと、選べるっていうわけじゃないけど可能性があるわけですよね。私が日本人だから子供にも日本というものをimposerしようとは全然思わなかったんですよ。自然な形で自分たちで育っていくだろうと思ってね。それが正しかったとは言いませんよ。間違ってたかもしれないけれど放っておいたわけですよ。放っておけば、馬鹿でなければちゃんとした人間に、どっちかになりますよ。適当に努力して。
【O】 それぞれ選ばれていたんですね。でもルネさんとの間でも今でも会話はフランス語ですか?
【F】 ルネとですか?
【O】 はい。
【F】 そうね。
【O】 やっぱりそうなんですね。
【F】 それからね、なんていうんでしょうね。日本との例じゃないですよ、日本との例は少ないからね。中国の、親がフランス人で子供が、ようするに中途半端な中国通であり中国語であるというのは、そりゃあ間に合いますよ。そういう中国語、使い道もあるし結構役に立つし、あるんだけど私の見てきた範囲では本当に本格的な立派な中国学者とかそういうのは、そういう親がフランス人だからとかそういうものじゃできないですよね。もっと大変なもんですよ。専門家になるっていうのは。
【O】 それは勿論。
【F】 聞きかじりで日本語も出来るしなんとかそれでもいいんですけどね、私はそれはちょっとあんまり許せないというほどじゃないけども、やるならしっかりやりなさいっていうほうです。
【O】 なるほど。そうでないならばもうフランス人として。
【F】 フランス人として。だってね、フランス語本当にマスターして立派なフランス語を使ってね、言葉はおかしいけども第一級の知識をフランス人として、両方持てないですよ。
【O】 それはそうですね。
【F】 どっちか選ばなくちゃね。難しいんですもん。
【O】 確かに。結果的にお家の中にこれほど日本に関する書物がある環境で育たれたけど、でもルイさんはそういうものには全く興味を。
【F】 全く興味を持って無いとはいえないけどね。だけどそれを専門にしようとは思わないよね。
【O】 それはそうですね。さらにそのお子さん方となると、ある意味日本の血が4分の1入ってるという、お孫さん方は。
【F】 だいぶ薄くなってるわね。でも興味は持ってるんですよ。興味は持ってるけれども私が経験したっていうか見てきた範囲ではね、中国学の人たちも私何人か知っていますし、それから日本学の関係も知ってますけどね。親がそうだったからっていってね、必ずしも子供が深くできるわけじゃないんですよね、学問というものは。私が厳しすぎたのかもしれない。
【O】 そうですね。求める水準がね。では、ちょっと範囲を広げてご親戚付き合いっていうのはあったんですか?
【F】 何?
【O】 親戚付き合い。このご家族の中ではある程度皆さんフランス語で会話してこうやってご家族を作ってこられたと。ベルナール先生のお母さまとの関係も伺いましたがもう少し広い範囲の親戚付き合いっていうものはありましたか?
【F】 ありましたよ。
【O】 その中でいきなり日本からお嫁さんが一人来てるわけですが、その方たちは別にベルナール先生のように日本学に興味があるわけでもなんでもない、普通のフランス人の人達なわけですよね?そのご親戚付き合いの中で日本から来たお嫁さんっていうのはどういうふうに受け止められてたんでしょうね。
【F】 さあね、お付き合いというものがどこまで真実かわからないですよ。
【O】 それはそうでしょう。
【F】 だけど表面的なっていうか、普通の生活の中でベルナールが日本からお嫁さん連れて来た、それに対する、私に対する態度ですね。それは全く、なんて言うんですかね、問題ないっていうか、私が感じた範囲では差別というものは全く無かったですね。
【O】 差別というと言葉が随分と強いですが、なんだろう。
【F】 好奇心?
【O】 異物感とでも言いましょうか、ちょっと変わり種が混じってきたなっという感じはしなかったんですかね?
【F】 親類やなんかで?
【O】 そう。
【F】 そりゃあったでしょうね。だけどベルナールがね、ベルナールっていうのがついてるわけですよ。
【O】 そりゃそうです。
【F】 一生懸命に日本というものを体現してるわけですよ。むしろ私の方がヨーロッパ、フランスの社会に同化しようという態度だったかもね。
【O】 そりゃそうですよ、美術を学ばれてゆくゆくはフランスにも留学したいなあっていうフランス好きだったわけですものね。
【F】 うん。別にだけど、そうね、私が日本人だからっていう違和感っていうのは本当に無かったわね。それは私が気が付かないということもあったでしょうけども、性格にもよるわね。平気だったのね。非常に自分が外国人である、日本人であるという事を非常に意識する人もいますよ。
【O】 実際にそういう方にも会われましたか?
【F】 だってたくさんいますもんね。まあ子供には是非日本語をやらせるとかね。私は割合気楽に、まあどうでもいいわっていうくらい、出来る子なら出来るだろうし、出来ない子だったらいくらお尻叩いてもダメだろうぐらいに思って。成功しない例もあるんですよね。あまりに親がこだわると。子供は果たしてそれが幸せかどうかわかりませんよ。
【O】 そうですね。また実際こうやってフランスで暮らして学校教育を受けたら、常にフランス語に接してるわけでよほど自覚的に日本語を学ばない限り、自然に身に付くという事はなかなか無いでしょうね。
【F】 そうね。でもみんなが、そりゃ成功してる例もありますよ。
【O】 そうですか。
【F】 だけど、なんていうんだろう、いわゆる日本学者、中国学者、そういうものにはならないですね。
【O】 それはまた話がだいぶ、レベルが違いますから。
【F】 だから本当に中国学者なんていうのはやっぱりみんなフランス人ですよね。日本学の場合も。ただお母さんが日本人だからっていって済むようなもんじゃないわけですよね。
【O】 だいぶ経ちましたので、いかがでしょう、今日はこれぐらいで。
【F】 はい。
【O】 どうもありがとうございました。
【F】 こちらこそ。
【O】 では、切ります。